はじめに:住職が見つめた「自分探し」の道
「自分探し」という言葉を耳にするたび、多くの方が共感を覚えるのではないでしょうか。何を隠そう、この私も若い頃は、人並みに「本当の自分とは何か」と悩み、模索した時期がありました。思えば、それはまるで暗闇の中を手探りで進むような、孤独な旅路だったように思います。世の中には、自分探しをテーマにした書籍や情報が溢れかえっていますが、その旅に終わりが見えず、むしろ迷いを深めてしまう方も少なくありません。
私たち現代人は、幼い頃から「個性」や「自分らしさ」を求められる一方で、社会の枠組みの中で生きることを求められます。そのギャップに戸惑い、本当の自分を見失ってしまうことがあるのかもしれません。住職という立場にあり、日々、多くの方々と接する中で、老若男女を問わず、この「自分探し」という問いに直面している方がいかに多いかを実感しています。しかし、仏教の教えに深く触れる中で、この「自分探し」の旅には、実は終わりがあるのだということに気づかされました。そして、その終着点にこそ、「本当の自分」と出会うための確かな道筋があると感じています。
終わらない「自分探し」のループ:現代人の苦悩
現代社会は、情報に溢れ、選択肢が多様化しています。インターネットを開けば、華やかなライフスタイルを送る人々の情報が目に飛び込んできます。SNSでは「こうあるべき」という理想の姿が提示され、知らず知らずのうちに、私たちは他者と自分を比較し、劣等感を抱いたり、焦りを感じたりしてしまいます。
「もっと輝く自分になりたい」「周りから認められたい」――こうした思いは決して悪いものではありません。しかし、その思いが強すぎるあまり、外側の情報や評価にばかり目を向け、常に満たされない感覚に陥ることがあります。新しいスキルを身につけたり、流行の場所へ出かけたり、物質的なものを手に入れたりしても、一時的な満足感は得られても、心の奥底にある「これでいいのだろうか」という不安や渇きが消えることはありません。まるで、喉が渇いているのに塩水を飲むように、外にばかり答えを求めることで、かえって心の乾きを増幅させてしまう。これが、多くの現代人が陥りがちな「終わらない自分探しのループ」なのではないでしょうか。
仏教が説く「本当の自分」とは:無我と縁起の教え
では、仏教では「本当の自分」をどのように捉えているのでしょうか。仏教の根本にある考え方の一つに、無我という教えがあります。これは、「私」というものは、永遠不変の実体として存在するものではない、という考え方です。私たちは、肉体や感情、思考といった様々な要素が一時的に集まってできている存在であり、それらは常に変化しています。
例えば、子どもの頃の自分と今の自分を比べてみてください。容姿も考え方も、大きく変化しているはずです。まるで川の流れのように、一瞬たりとも同じ状態ではありません。私たちは「私」という固定された実体があると思い込みがちですが、それは幻のようなものなのです。
そして、もう一つ重要なのが、縁起の教えです。これは、すべての物事は、単独で存在しているのではなく、様々な「縁(つながり)」によって生じ、存在し続けている、という考え方です。私たちが今ここにいるのも、ご先祖様からの命のつながり、両親との縁、友人や同僚、そしてこの世界に存在するあらゆるものとの関係性があるからです。
お茶碗一杯のご飯を例にとりましょう。そのご飯は、お米を育てた農家さん、水を供給する自然、流通に関わる人々、調理してくれた家族など、無数の縁によって私たちの食卓に届いています。私たちは、そうした多くの縁に支えられ、生かされている存在なのです。「自分」という枠を取り払い、あらゆるものと自分がつながっているという縁起の視点を持つことで、私たちは初めて、ありのままの自分、そして広大な世界の一部としての自分を理解できるようになるのです。
「本当の自分」に出会うための実践:慈悲と瞑想
それでは、仏教の教えを日々の生活に取り入れ、「本当の自分」に出会うためには、具体的に何をすれば良いのでしょうか。ここでは、私が日々の生活の中で大切にしている二つの実践をご紹介します。
一つ目は、慈悲の心を育むことです。慈悲とは、他者の苦しみを抜き去り(悲)、安楽を与えたい(慈)と願う心のことです。私たちはとかく自分のことばかり考えてしまいがちですが、他者を思いやる心を持つことで、自己中心的な視点から解放されます。
例えば、子育てをしていると、子どもが言うことを聞かずにイライラすることもありますよね。私もそうです。しかし、そんな時こそ、子どもの立場になって考えてみる。「なぜこんなことをするのだろう」「何か不安があるのだろうか」と、子どもの心に寄り添ってみる。そうすることで、怒りの感情が和らぎ、子どもへの慈しみの気持ちが湧いてくることがあります。そして、他者への慈しみの心は、巡り巡って自分自身への慈しみの心へとつながっていくのです。自分の弱さや不完全さをも受け入れられるようになる。これが、本当の自分に出会う第一歩です。
二つ目は、瞑想、特に「今ここ」に意識を向ける実践です。私たちは常に過去を悔やんだり、未来を心配したりして、心が落ち着かない状態にあります。瞑想は、そうした心のざわつきを静め、今この瞬間の自分と向き合うための時間です。
特別な場所や道具は必要ありません。静かな場所で座り、ただ自分の呼吸に意識を集中してみてください。息が入ってくる感覚、出ていく感覚。心が他のことに囚われたら、そっと呼吸に意識を戻す。これを繰り返すことで、思考の波に飲み込まれることなく、心の穏やかさを取り戻すことができます。これは、まるで泥水が静かに沈殿し、澄んだ水が表れるようなものです。日々、少しずつでもこの実践を続けることで、心の動きを客観的に観察できるようになり、自分自身を深く理解する手がかりとなるでしょう。
「自分探し」の終わり、そして「新たな始まり」へ
「自分探し」の旅は、外に答えを求める限り、終わりが見えない迷路のようなものです。しかし、仏教の教えを通して見えてくるのは、「本当の自分」とは、どこか遠くにあるものではなく、すでに私たちの中に存在している「気づき」なのだということです。完璧な自分を追い求めるのではなく、ありのままの自分を受け入れ、日々の縁の中で生かされていることに感謝する。そうすることで、心が穏やかになり、無駄な焦りや不安から解放されます。
私はこの仏教的なアプローチが、現代社会に生きる私たちにとって、いかに心の平安をもたらすかを実感しています。子どもの成長を見守り、家族と共に食卓を囲む日常の中に、深い安らぎと喜びを見出すことができるようになりました。それは、特別な何かを成し遂げたからではなく、ありのままの自分と、周りの人々、そして世界とのつながりを深く感じられるようになったからです。
「自分探し」の旅は、探すことをやめた時に、本当の自分との出会いへと変わります。それは終わりではなく、むしろ「新たな始まり」なのです。この気づきを得た時、私たちは、変化を受け入れ、人生の困難をも乗り越えるしなやかな心を手に入れることができるでしょう。
おわりに:共に歩む「気づき」の道
「自分探し」の旅の終着点は、案外、私たちのすぐ足元にあったのかもしれません。仏教の教えは、決して難解な哲学ではありません。日々の暮らしの中で実践できる、ごく当たり前の「気づき」の道を示してくれています。
もし、今「自分探し」の途中で立ち止まっている方がいらっしゃいましたら、どうかご安心ください。焦らず、ご自身の心の声に耳を傾け、そして、周りの人々との縁、自然とのつながりに意識を向けてみてください。そこに、きっと「本当の自分」へと続く確かな道が見えてくるはずです。
このご縁が、皆様の心の安らぎにつながることを心より願っております。


