先日、家族で食卓を囲んでいた時のこと。いつものように食事の前に皆で手を合わせ、「いただきます」と声を揃えました。すると、小学校低学年の息子が、きょとんとした顔で私の顔を見上げ、こう尋ねたのです。
「ねぇ、お父さん。どうして『いただきます』って言うの? このお肉も野菜も、スーパーでお父さんがお金を払って買ってきたものでしょ?」
その純粋な疑問に、私は一瞬、言葉を失いました。そして、これこそが、現代を生きる私たちが、知らず知らずのうちに失いかけている大切な感覚なのかもしれない、と深く考えさせられたのです。
確かに、お店で対価を支払えば、私たちは簡単に食べ物を手に入れることができます。その行為は「消費」と呼ばれ、経済活動の根幹をなすものです。しかし、私たちの食事は、本当に「買ったものだから、それで終わり」なのでしょうか。
このブログを読んでくださっているあなたも、もしかしたら同じような疑問を抱いたことがあるかもしれません。あるいは、お子様にどう説明すればよいか、言葉に迷った経験があるかもしれませんね。
今日は、この「いただきます」という短い言葉の奥に広がる、壮大で、そして温かい世界について、皆さまと一緒に旅をしてみたいと思います。これは単なる食事のマナーの話ではありません。私たちが日々の食卓で、いかに多くの「命」と「おかげさま」のバトンを受け取っているか、その感動の物語なのです。
第一章:お金で「買う」ことの、その先にあるもの
私たちの周りには、24時間明かりの灯るコンビニがあり、スーパーマーケットの棚には、季節を問わず世界中から集められた食材が美しく並んでいます。肉は部位ごとに切り分けられ、清潔なパックに詰められ、魚は骨や内臓が取り除かれて切り身になっています。野菜は泥ひとつなく洗われ、袋詰めされています。
この圧倒的な利便性の中で、私たちは食べ物が元々どのような姿をしていたのか、どこで、どのように育まれてきたのかを想像する機会を、少しずつ失っているのかもしれません。
子どもたちが、魚は切り身の形で海を泳いでいると信じ、お米が木になると思っている、という笑い話のような本当の話を耳にすることもあります。しかし、これを単に子どもの無知と笑うことはできないでしょう。私たち大人自身が、生産の現場から遠く離れた場所で、完成された「商品」としてのみ食べ物と接しているのですから。
「お金を払ったから自分のものだ」という考え方は、この「商品」という側面だけを捉えた、非常に表層的な見方と言えるでしょう。この考え方の根底には、「所有」の感覚があります。しかし、仏様の教えでは、この世に存在するもので、完全に「自分だけのもの」など何一つないと説きます。私たちの身体でさえ、父母からいただいたものであり、いずれは自然へと還っていく借り物なのです。
ましてや、他の命をいただいて自らの命を繋ぐ「食」という行為において、「所有」という感覚は馴染みません。私たちは食べ物を「所有」しているのではありません。数えきれないほどの縁(えん)が繋がり、奇跡的に私たちの目の前に届けられた尊い「命」を、謹んで分け与えていただいているのです。
ですから、「いただきます」という言葉は、「この食べ物は私のものだ」という宣言ではなく、「あなたの尊い命を、私の命として引き継がせていただきます」という、深い感謝と謙虚な決意を表す言葉なのです。お金を支払うという行為は、その壮大な命のリレーに参加させていただくための、ほんの入り口に過ぎないのです。
第二章:食卓は、壮大な「命のバトンリレー」のゴール
それでは、私たちの目の前にあるこの一杯のご飯が、どのような旅をしてここへやって来たのか、少し想像の翼を広げてみましょう。食卓は、まさに壮大な「命のバトンリレー」のゴール地点なのです。
太陽と大地、水の恵みという第一走者
全ての命の源は、遥か彼方で燃え盛る太陽の光にあります。あの温かい光がなければ、地球上のどんな植物も育つことはできません。そして、その光を受け止める広大な大地。植物の根が養分を吸い上げ、私たちの体を支える骨や血肉となるミネラルを蓄えた土壌。空から降り注ぎ、あらゆる命の渇きを潤す、清らかな水。
私たちは普段、当たり前のようにその恩恵を受けていますが、これら自然の働き一つひとつが、奇跡的なバランスの上に成り立っています。この自然界という偉大な存在が、命のバトンリレーにおける最初の、そして最も重要な走者なのです。
植物たちの静かな営みが繋ぐバトン
食卓に湯気の立つ、真っ白なご飯。このお米一粒一粒に、稲という植物の一生が凝縮されています。
春、農家さんの手によって一粒の種籾が苗代に蒔かれ、小さな芽を出します。初夏には、水が張られた田んぼに植えられ、夏の眩しい太陽の光を一身に浴びて、ぐんぐんと背を伸ばします。その間、台風や病害虫から身を守り、ただひたすらに天からの恵みをその身に蓄えていきます。
そして秋。黄金色に頭を垂れた稲穂は、農家さんの手によって収穫され、私たちの食卓へと運ばれてきます。お米一粒は、ただの白い粒ではありません。春の息吹、夏の太陽、秋の実り、そしてその全てを支えた水と土の記憶が詰まった、小さな命そのものなのです。
私たちがいただく野菜や果物も同じです。大根が土の中でじっくりと栄養を蓄える静かな時間。トマトが太陽の光を浴びて、青から赤へと色づいていく生命の輝き。その一つひとつが、懸命に生きた命の証です。
動物たちの尊い命という重いバトン
私たちがいただくお肉やお魚は、ほんの少し前まで、私たちと同じように心臓を動かし、温かい血を巡らせ、この世界で生きていた存在です。牛や豚、鶏、そして大海を泳ぎ回っていた魚たち。彼らは、私たち人間の都合によってその命を絶たれ、私たちの食料となります。
この事実に、私たちは目を背けるべきではありません。もちろん、食肉処理の現場などを直視することは、精神的に大きな負担を伴うかもしれません。しかし、その現実から目を逸らし、ただパックに詰められた「お肉」という名の「物」として消費するのではなく、彼らが確かに「生きていた」という事実を、静かに心で受け止めることが大切なのではないでしょうか。
彼らの命があったからこそ、私たちは今日を生きるためのエネルギーを得ることができる。その厳粛な事実の前に立った時、おのずと頭が下がり、感謝の念が湧き上がってくるはずです。彼らが繋いでくれた命のバトンは、他の何にも代えがたい、重く、尊いものなのです。
第三章:見えないところで食卓を支える、無数の「おかげさま」
さて、自然や動植物の命のバトンを受け取っただけでは、まだ私たちの食卓は完成しません。そこには、私たちの目には見えないところで、数えきれないほど多くの人々が関わってくださっています。私たちは、その方々の存在を「おかげさま」という美しい言葉で表現してきました。
生産者という名の、命の伴走者
農家さんや漁師さん。彼らは、自然という、時に優しく、時に厳しいパートナーと向き合いながら、命を育み、命を獲るという神聖な営みを担ってくださっています。
真夏の炎天下、汗だくになって畑の草をむしるお爺さんの姿を想像してみてください。凍えるような冬の早朝、かじかむ手で網をたぐる漁師さんの姿を想像してみてください。長雨が続いて作物の生育を心配し、夜も眠れない日があったかもしれません。反対に、日照りが続いて、枯れていく畑を前に、天を仰いだ日もあったかもしれません。
彼らの労働は、単にお金を稼ぐための「作業」ではありません。天候を読み、土地の声を聞き、命のサイクルに寄り添う、深い知恵と経験、そして愛情がなければ成り立たない、尊い営みです。私たちが支払うお金は、その苦労への対価ではありますが、彼らが注いでくれた時間と愛情の全てを埋め合わせることは到底できないでしょう。
届ける人々が繋ぐ、感謝のリレー
大切に育てられ、収穫された食材は、リレーのバトンのように、次の走者へと渡されます。
市場で威勢の良い声を響かせながら、最も良い品を仕入れようと目を光らせる仲買人の方々。真夜中の高速道路を走り、産地から私たちの街まで鮮度を保ったまま食材を運んでくれるトラックの運転手さん。スーパーマーケットで、一つひとつ商品を丁寧に並べ、私たちが気持ちよく買い物できるように笑顔で迎えてくれる店員さん。
これら流通に携わる全ての方々が、それぞれの持ち場で責任を果たしてくださるからこそ、私たちはいつでも新鮮で安全な食材を手に取ることができるのです。まさに「おかげさま」の連鎖です。
愛情という最後のスパイスを添える人
そして、いよいよバトンは家庭の食卓へ。そこには、家族のために料理を作る人の姿があります。
お母さんかもしれませんし、お父さんかもしれません。あるいは、お爺ちゃん、お婆ちゃんかもしれませんね。その人は、家族の健康を考え、好みや栄養バランスを考慮して、毎日献立を考えます。仕事や家事で疲れていても、買い物に行き、野菜を洗い、肉を切り、火加減を調整し、心を込めて調理をしてくれます。
この食卓を準備するという行為には、計り知れないほどの時間と愛情が注がれています。「美味しいね」の一言が聞きたくて。家族の笑顔が見たくて。その想いこそが、どんな高価な調味料にも勝る、最高のスパイスなのです。
こうして見てくると、私たちの食事は、決して一人で完結しているものではないことが分かります。自然、動植物、そして数えきれない人々の「おかげさま」の結晶が、この食卓に集まっているのです。
第四章:仏様の教えに学ぶ「いただく」ということの深さ
住職という立場から、仏様の教えに照らして、この「いただく」という行為をさらに深く見つめてみたいと思います。
全ては繋がっている「縁起えんぎ」の世界
仏教の根幹には「縁起」という教えがあります。これは、「此れ有れば彼有り、此れ無ければ彼れ無し」という言葉に表されるように、この世の全ての物事は、それ単独で存在しているのではなく、無数の原因や条件(縁)が相互に関係し合って成り立っている、という考え方です。
あなたの目の前にある一杯のご飯も、この縁起の教えの壮大な現れです。太陽がなければ、水がなければ、土がなければ、農家さんがいなければ、運ぶ人がいなければ、そして今ここにいるあなたがいなければ、この一杯のご飯は存在しませんでした。
つまり、この食事をいただくということは、自分という存在が、全宇宙のあらゆるものと繋がっていることを再確認する行為なのです。「私が食べる」のではなく、「宇宙全体の大きな命の働きによって、今、私が生かされている」。そう感じた時、「いただきます」という言葉は、自分という小さな存在を超えた、森羅万象への感謝の祈りとなるのです。
いただくに値する私か?と問う「応供おうぐ」の心
お釈迦様の弟子たちは、托鉢によっていただいた食事を、自らの修行の糧としてきました。その際、彼らは常に自問したといいます。「自分は、この尊い施しをいただくに値するだけの修行ができているだろうか」と。これを「応供」と言います。供養や施しに、応えるだけの自分であるか、という意味です。
この教えは、非常に大切な示唆を与えてくれます。私たちは、これほど多くの命と人々の労苦の結晶である食事を、ただ漫然と口に運んでいないでしょうか。
「いただきます」という言葉は、外に向けての感謝であると同時に、内に向けて自らを省みるための言葉でもあります。この尊い命をいただいて、私は今日一日、どのような行いをするべきだろうか。他の人の役に立つことができるだろうか。感謝の気持ちを行動で示すことができるだろうか。食事の前の合掌は、そんな誓いを立てるための、大切な時間でもあるのです。
食べる瞑想「食禅じきぜん」のすすめ
忙しい毎日を送っていると、食事の時間さえも惜しいと感じ、スマートフォンを見ながら、テレビを見ながら、何かをしながら食事を済ませてしまう「ながら食べ」が多くなりがちです。しかし、それでは、せっかくの命のバトンを、ただ胃に流し込んでいるだけになってしまいます。
そこでご提案したいのが、「食禅」という考え方です。これは、食べるという行為そのものに、意識を集中させる瞑想です。
まず、目の前の食事を静かに眺めてみてください。お米の輝き、野菜の彩り、お味噌汁から立ち上る湯気。次に、香りを感じてみてください。出汁の香り、焼いた魚の香ばしい香り。そして、一口、ゆっくりと口に運び、目を閉じて、五感を総動員して味わってみるのです。食材の歯ごたえ、舌の上で広がる味の深み、喉を通っていく感覚。
ほんの数分でも構いません。このように食事と丁寧に向き合う時間を持つことで、心は不思議と静まり、満たされていきます。そして、食材一つひとつに込められた命の物語、作ってくれた人の温かい想いが、より鮮明に感じられるようになるはずです。
第五章:子どもたちの心に「感謝の種」をまくために
さて、冒頭の息子の問いに戻りましょう。これらの深い意味を、子どもたちにどのように伝えればよいのでしょうか。大切なのは、難しい言葉で理屈を教えることではなく、子どもたちが自らの体と心で「感じる」機会を作ってあげることだと思います。
五感で触れる食育の時間
知識として「命は大切だよ」と百回言うよりも、たった一度の体験の方が、子どもの心には深く刻まれます。
例えば、ベランダのプランターでミニトマトを育ててみるのはいかがでしょうか。毎日水をやり、小さな黄色い花が咲き、青い実が少しずつ赤く色づいていく様子を一緒に観察する。そして、収穫した真っ赤なトマトを口にした時の味は、きっと格別なものになるでしょう。それは、自らが命を育むプロセスに関わったという実感があるからです。
あるいは、魚を丸ごと一匹買ってきて、親子で一緒にさばいてみるのも素晴らしい体験です。魚の目やヒレ、内臓に触れることに、初めは抵抗があるかもしれません。しかし、それが「生き物」であったことの紛れもない証です。その命を解体し、調理し、いただくという一連の経験を通して、子どもたちは命の尊さを肌で感じるはずです。
物語の力で想像力を育む
子どもたちは物語が大好きです。食卓に並んだ料理を前に、「この人参さんはね、土の中でかくれんぼするのが大好きだったんだ。農家のおじさんが『もういいかい』って探しに来てくれるのを、ずっと待ってたんだよ」というように、食材を主人公にした小さな物語を語りかけてあげるのはどうでしょう。
「このお魚さんは、広い海を元気に泳いでいて、漁師のおじさんの網にかかったんだ。『みんなの元気になってね』って、遠い港からやって来てくれたんだよ」。
そうした物語は、子どもの想像力を掻き立て、目の前の食べ物が、単なる「モノ」ではなく、背景にたくさんの物語を持った、愛おしい存在であることを教えてくれます。
「もったいない」という美しい心
食べ物を残さず、きれいにいただくこと。これは、「命を最後まで大切にいただく」という感謝の気持ちの、最も基本的な表現です。なぜ残してはいけないのか。それは、この一口分のお米を作るためにも、たくさんの人の手間と時間がかかっているから。この一切れの野菜にも、懸命に生きてきた命が宿っているからです。
「もったいない」という言葉は、単なる節約精神ではありません。あらゆるものに宿る命や価値を尊び、無駄にすることを申し訳なく思う、日本人が育んできた美しい心です。この心を、日々の食卓で、親が自らの行動で示していくことが何より大切です。
結び:感謝の食卓が、世界を平和にする
「買ったものだから」。その一言で切り捨ててしまうには、「いただきます」という言葉は、あまりにも豊かで、深く、温かい世界を内包しています。
それは、遥かなる自然への畏敬の念。名も知らぬ多くの人々への感謝の気持ち。自らの命を生かしてくれる、他の全ての命への祈り。そして、その尊いバトンを受け取った者として、より良く生きようとする自らへの誓いです。
食卓で交わされるこの短い言葉が、子どもたちの心に、優しさと思いやり、そして感謝の灯をともします。一杯のご飯に心から「ありがとう」と言える子どもは、きっと、友だちの痛みにも気づける優しい人に育つでしょう。
そして、その感謝の輪は、家庭から地域へ、社会へ、そして世界へと広がっていくと私は信じています。自国だけでなく、他国の食料事情にも思いを馳せ、世界の貧困や飢餓の問題に心を寄せる。それもまた、「いただきます」の心の延長線上にあるのではないでしょうか。
皆さまの今日の食卓が、そして明日の食卓が、多くの命と「おかげさま」に気づき、温かい感謝の気持ちに満ち溢れた場でありますように。
静かに手を合わせ、心から祈念しております。
合掌。

